今年、身近なひとの死に直面しました。 とても、とても小さな、小さくて大きな命の。 私はいつもヨガの思想を通してこの世界を見ていて、自分なりの死生観を持っていたつもりでした。 突然の出来事を自分なりにうまく消化していた筈でした。 けれどある時、ふと気付きました。 「実は、悲しみに蓋をしていただけだったんじゃないか」と。 私にその気付きを与えてくださった一人が、上野宗則さんでした。 この言葉が印象に残っています。 「ひとの命に意味を見出す必要はない。ただそのひとと共に生きた時間を喜び祝福することが出来ればいい。」 身近なひとの死を受けいれることはなかなか難しいことです。 ゆっくり時間をかけて寄り添わないと悲しみは癒されないかも知れません。 と同時に、目を逸らさなければその出来事は私たちに、深い愛情や人生の豊かさへの気づきを運んでくれるのではないかと思うのです。 死に向き合い、死を想う「スロー・デス・カフェ」。 それは人生の喜びを味わう時間。 コーヒーカップを片手に、ゆっくり語り合いましょう。 FIVE ELEMENTS Ai / 渡部愛 ****************************** 死に向き合い、死を想う 「スロー・デス・カフェ」 ****************************** ■日時 2019年2月6日(水)13:30-16:30 ■参加費 1,500円(税込) 珈琲とお菓子付き ■ご予約 ヨガスタジオFIVE ELEMENTS ご予約のページより ■場所 ヨガスタジオFIVE ELEMENTS 〒604-0864 京都市中京区両替町通竹屋町下る松竹町136番 京都トコ会館3階 http://www.kenbisalon.jp/kyototoco.php#access ■ナビゲーター 上野宗則(Munenori Ueno) 1966年北九州市生まれ。株式会社素敬代表取締役社長。「ナースのためのエンゼルメイク・アカデミア」主宰。「SOKEIパブリッシング」発行人。「ゆっくり小学校」ようむ員。父親の死によって遺族となった経験から、死化粧用品などご遺体ケアの商品や看取りに立ち会う医療者のための講習会を企画。日本における“デス・カフェ”の先駆け「スロー・デス・カフェ」を開店し、店主に。文化人類学者の辻信一氏と「スロー・スモール・シンプル」の思想を伝える書籍や映像作品の制作を共にしながら、それらを世に問う場「ゆっくり小学校」を立ち上げた。農的な暮らしを楽しく社会に広める道具づくりにも励む。著書に『エンゼルケアのエビデンス!?』(SOKEIパブリッシング)がある。趣味はぶらぶら。民藝や現代アートが好き。 ■カフェ 杉山佳苗珈琲焙煎 http://kanaecoffee.ocnk.net ****************************** ■「スロー・デス・カフェ」とは? http://yukkuri-web.com/slowdeathcafe 「スロー・デス・カフェ」と聞いて、ピンと来る人は誰もいないでしょう。かなり怪しい名前ですもんね。 「スロー・デス・カフェ」とは、その名の通り、ゆっくりと死について考え、思いを馳せる“メメント・モリ”な円居の場のことを言います。 メメント・モリというラテン語は「死を想え」と訳されますが、「死について想うことは生きることを想うこと」といったニュアンスを含んでいて、わたしたちに「死生観」を持つ大切さを教えてくれる言葉です。 「死生観」とは死から生を省察し、生きる意味や生きる姿勢を養うってことですが、「スロー・デス・カフェ」とは、まさに「死から生の意味を考える」きっかけをつくるムーブメントなのです。 ところで、「死とはなにか?」、「いのちとはなにか?」と聞かれても、それを説明するのは容易ではありませんよね。そもそもみんな「死」についてなんか考えたくもないでしょう。でも確実に言えるのは、わたしたち人間は必ず“死に逝く存在である”ということなのです。 ヒトが「死」を発見したのはネアンデルタール人の頃だとか、クロマニョン人だとか諸説あるようですが、いずれにしても、はじめて「死」を発見したヒトはそれをとても驚いたに違いありません。「あー、自分はいつか死んでしまうのか。これはうかうかと生きてはいられない!」、きっとそう思ったことでしょう。 死の発見は宗教観をもたらしたと言われますが、死の発見はなにより生の発見でもあるのです。永遠に生きる生、どこまでも続く死のない生は生ではありません。死は生きるための最大の障害でありながら、同時に生きるための必要な条件なのです。 それでも人間はこれまでの歴史のなかで不老不死を求め、死に抗い続けてきました。今日の科学物質主義文明が生みだした医療技術の目ざましい進歩は、かつて不治とされていた病の治療や延命を可能にしました。 しかしその一方で、人々が死を受け入れられない社会、死を見ない社会がつくられてしまったのです。いくら科学が進んだとしても、わたしたちは死なないわけにはいかないのです。なぜなら、わたしたちは生きる存在なのですから。 死には人称性があり、3種類の死をわたしたちは人生のなかで経験すると言われています。 1人称の死は自分自身の死、2人称の死は身近な関係性の深い人の死、3人称の死は社会のなかで起きている他者の死です。 フランスの哲学者であるV.ジャンケレヴィッチは「哲学的な経験として残るのは第2人称の死、つまり身近なひとの死です。…死の哲学は身近にいるひとの死を契機としてなされるのです」と言っています。身近な人の死は身を切られるほどの大きな悲しみでありながら、死を本当に学ぶには大切な存在を失う体験からしか学べないものです。 「スロー・デス・カフェ」の目的のひとつに、喪失感の共有や感情の表出があげられます。2人称の死を経験した人も未経験の人も、それぞれの体験や想いを吐露し、対話しながら、抱え込んでいる悲しみやさまざまな感情を表出する、堂々と泣いてすっきりする…、死を受容する時間を過ごし、その経験を人生に活かす力を養っていきたいものです。 2人称の死は辛く悲しく寂しいけれども、嘆き悲しむだけの経験ではありません。大切な人の死をゆっくりと受け入れながら、そこで感じた思いを人生に活かし学ぶチャンスに変えていきましょう。 「スロー・デス・カフェ」では、その場に集う人々と「ああでもなく、こうでもなく」と死について考え、対話しながら、わたしたちは死に逝く存在であるという極々当たり前のことを思い出し、生きているいまを噛みしめる時間をつくっていきたいと思っています。 死とコーヒーはほろ苦い。 死は辛くて、寂しくて、悲しいものですが、死に向き合い、死を想い、生きる意味を探ってみませんか。
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